Best & List       
 
ロック・ベスト100 ~ロックの時代を創った100曲~
 

5.アメリカン・ハードの時代
1969-1981
 Grand Funk Railroad / Heartbreaker (1969) 
1968年頃より勃興していたニューロック、ヘヴィロックのスタイルを取り入れ、1969年、アルバム『グランド・ファンク・レイルロード登場(On Time) 』でデビューする。レッド・ツェッペリンのアメリカ公演の前座をやった際、演奏力の高さで聴衆を熱狂させ、ロックファンにその名を轟かすようになる。アルバムからシングルカットされた「Heartbreaker」はハードロックの古典となっている。1971年の来日公演は激しい雷雨の中で行なわれ、当時のロック伝説のひとつに数えられる後楽園球場の公演では観客が興奮で暴動寸前になった。1972年の『Phoenix』からは音楽性をポップな方向に広げ、バンド名をグランド・ファンク(Grand Funk)に変更した。1973年、トッド・ラングレンにプロデュースを委ねたアルバム『 アメリカン・バンド (We're an American Band ) 』を発表。同名シングル曲が全米1位を獲得する大ヒットを記録、このアルバム・タイトルはそのまま彼らの代名詞となり、ボン・ジョヴィなど後に登場するアメリカのロックバンドにライブなどで何度もカバーされている。続くアルバム『輝くグランド・ファンク (Shinin' On) 』では、リトル・エヴァ の大ヒット曲「The Loco-Motion 」をハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ、こちらも全米1位を獲得、グランド・ファンク最大のヒットシングルとなった。

Blue Öyster Cult / Cities on Flame with Rock and Roll (1972)
1967年にニューヨーク市のロングアイランドで結成され、ヘヴィメタルの源流の一つになったバンドであると考えられている。結成当初は「Soft White Underbelly」と名乗っていたが、評判は今ひとつであった。バンドはシンガーを交替させ、バンド名も次々と変えていき、70年になって「ブルー・オイスター・カルト」に落ち着いた。1972年、コロムビアより『Blue Öyster Cult』でデビュー。「Cities on Flame (With Rock n' Roll)」を収録しているこのアルバムはビルボード200にチャートインし、バーズやアリス・クーパー、マハヴィシュヌ・オーケストラらと盛んにツアーを行って知名度を上げていった。コロムビアは彼らをアメリカ版ブラック・サバスとして売り出そうと試みコンスタントにアルバムをリリースする。75年、ライブ・アルバム『On Your Feet Or on Your Knees』でより広く知られるようになった。当時としてはLP盤2枚組の高価なセットであったが、スタジオ録音のB.O.Cとは趣が異なる演奏が聴ける名作である。全盛期は1976年の「タロットの呪い」(Agents Of Fortune)から81年の「呪われた炎」(Fire of Unknown Origin)まで。(Don't Fear)The Reaperがヒットした。 2001年に『Curse of the Hidden Mirror』をリリース以降、スタジオ盤のリリースはなく、エリック・ブルームと"バック・ローザーの2人のオリジナルメンバーを中心にメンバーチェンジを繰り返しながら、主に全盛期の曲をメインとしたライブ活動を行っている。

 Montorose / Bad Motor Scooter (1973)
1973年、ロニー・モントローズがミック・ラルフスの後釜としてモット・ザ・フープルへの参加要請を断ってまで結成。同年にデビュー・アルバム『Montrose 』を発表。これぞアメリカン・ハードだと言わんばかりの痛快なハード・サウンドを生み出す。その後、セカンド・アルバム『 Paper Money 』発表するもサミー・ヘイガーは同作を最後に脱退し、1976年にソロ・デビュー、後にヴァン・ヘイレンに加入する。その後もバンドはメンバー交代を繰り返し、76年にラスト・アルバムとなる『Jump On It 』を発表。同作のジャケット・デザインはヒプノシスが担当し、女性の股間をアップにした写真を使用し話題に。ロニーは、自分がやりたいことをやり、自分がその時必要としているメンバーだけを選択する。このモントローズのメンバー捜しにおいても、理想のサウンドを追求すべく、それを具現化するために必要な腕利きミュージシャンだけを選び抜いた。その結果、在籍したメンバーの多くが後に有名になっていった。
Aerosmith / Walk This Way (1975)
1973年、アメリカ東海岸出身のハードロック・バンドとしてデビュー。70年夏、アメリカニューハンプシャー州サナピー湖にあるクラブ「ザ・バーン」でジョーとトムらによるバンド「ザ・ジャムバンド」の演奏をスティーヴンが観ており、彼らに新バンドを組む話を持ちかけた事が「エアロスミス」誕生の発端。スティーブンはすでに別のバンドでドラマー兼ボーカルとして活動しており、地域で知名度があった。ドラマーにジョーイ、もう1人のギタリストにレイモンド・タバーノが加入し活動がスタート。翌1971年にレイモンドが脱退。バンドは新たなギタリストとしてブラッドを迎え、オリジナルメンバーが揃うことになる。1973年1月、1stアルバム『野獣生誕』でデビュー。アルバム収録曲の「Dream On」がアメリカ東海岸地区のロック系ラジオを中心として注目され、同曲をシングルカット。全米チャート59位まで昇するヒットとなる。1975年4月、3rdアルバム『闇夜のヘヴィ・ロック』を発表。「Walk This Way」や「Sweet Emotion」もシングルヒットし、アルバムも全米チャート11位まで上昇。バンド初のプラチナ・ディスクを獲得した。その後も「ロックス」「ドロー・ザ・ライン」など名盤を生んでいくが、ドラッグやアルコールの問題やメンバーの脱退など80年代前半は低迷期を迎える。オリジナルメンバーでの活動を再開し、1986年、Run-D.M.C.が「Walk This Way」をカバー。スティーヴンとジョーがレコーディングに参加、ミュージック・ビデオにも出演した。このシングルは全米チャート4位となり、エアロスミスが音楽シーンにカム・バックしていくきっかけになった。現在もオリジナルメンバーで活動している。
KIss / Rock'n Roll All Nite (1975)
ミュージシャンとして契約を目指すジーン・シモンズ、ポール・スタンレーにピーター・クリス、エース・フレーリーが加わり、バンド名をキッスとし、1974年にアルバム『Kiss~地獄からの使者 』でレコードデビューするも人気は奮わなかった。セールスは伸び悩んだが、ライヴでは徐々に力を付けていった。75年発売のサードアルバム『地獄への接吻 』を発売すると、デトロイトではラジオ放送局が「C'mon And Love Me」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり人気が沸騰していた。当時、小さな田舎町をツアーで回っていたメンバーは、ツアーをキャンセルし、デトロイト・コボホールでの単独コンサートを行い、そのライブを収録したアルバム『地獄の狂獣 Alive! 』が、全米チャート9位に入るヒットを記録し、「Rock And Roll All Nite」も大ヒットとなる。バンドの知名度は急上昇する事となる。翌年の1976年、ボブ・エズリンをプロデューサーに迎えて制作した『地獄の軍団』をリリース。コンサートの観客動員数も爆発的に伸び、その後もヒットアルバムを次々とリリースしたが、バンドの人間関係は最悪な状態になっていた。 行き詰まったバンド内の人間関係を修復すべく、またソロ活動を望むフレーリーのためにも、各メンバーがそれぞれソロアルバムの制作を発表。1978年9月、各メンバーのソロアルバムを同時にリリースする。エースのソロアルバムに収録された「New York Groove」がヒット。ソロ・アルバムで自信をつけたエースは、さらにグループからの独立を志向し始める。その後、ピーターの解雇、エースの脱退、これ以降、人気は低迷する。打開のため素顔での活動をするなど、活動は変化していったが、1996年のMTVアンプラグド・ライヴが好評だったことからオリジナルラインナップで13年振りにメイクを施して行う大規模なリユニオン・ワールド・ツアーをスタートさせ、大熱狂と共に受け入れられ、1998年に『Psycho Circus』発売。全米初登場3位にランクインしたが再度、ピーターとエースが脱退し、エリック・シンガーとトミー・セイヤ―を加えて活動している。
 BOSTON / More than feeling (1976)

Bostonの実態はトム・ショルツのソロ・プロジェクトである。バンドのメンバーはデビューにあたってライブプロモーション活動を行なうために集められた。音楽性の特徴は、英国のハード・ロックとプログレッシブ・ロックをアメリカ人ならではのセンスでポップに消化し、1970年代後半から1980年代前半のアメリカン・ハードロック隆盛のきっかけを作った。また初期は似たような音楽性のジャーニー、スティクス、カンサスらと同じくアメリカン・プログレ・ハードにカテゴライズされていた。トム・ショルツは、7歳からピアノを習い、マサチューセッツ工科大学在学中にギターを独学で覚える。大学卒業後はポラロイド社に就職しプロダクト・エンジニアとなった。仕事の傍ら、自宅アパートの多重録音可能なスタジオでデモ・テープを作り、CBS Recordsに認められたことで、デビューの運びとなる。アルバム・ジャケットに刻印された「No Synthesizers Used」「No Computers Used」という有名なクレジットは、その綿密に手を加えられた音源と、膨大な時間と労力を費やしたミックス作業を物語るものである。1976年、ファースト・アルバム『幻想飛行』は、シングル・カットされた「More Than A Feeling」と共にヒット・チャートを駆け上がる。アルバムは全米3位を獲得し、同年だけで100万枚を売り上げ、2003年までに通算1700万枚のセールスを記録、アメリカン・ロックの新しい時代を開く歴史的作品となった。78年、ツアーの合間を縫って慌ただしく制作されたセカンド・アルバム『Don't Look Back』も全米1位の大ヒットを記録する。次作の発表が待ち望まれたが、完璧主義者のショルツのレコーディング作業はなかなか進まず、ついにはCBS Recordsに契約不履行で訴えられ長期間の法廷闘争に突入、ボストンの活動は一時停止する。法廷闘争が決着しMCA Recordsへ移籍した1986年、アルバム『Third Stage』を発表。シングル・カットされた「Amanda 」が全米1位を獲得し、アルバムも2作連続で1位を記録。その後も悠々自適のペースでアルバムを制作、1994年に『Walk On』、1997年のベスト盤をはさんで、2002年に『コーポレイト・アメリカ』、2013年、『Life, Love & Hope 』を発表。  
 
KANSAS / Carry On Wayward Son (1976)
1970年、カンサス州ウェスト・トペカのハイスクール仲間だったケリーとデイヴ、フィルの3人が、フランク・ザッパに触発されて結成したバンドがカンサスの基になっている。1972年ごろにフィルがイギリスに音楽留学した際、全盛期のプログレッシブ・ロックを目の当たりにし衝撃を受ける。その後、バンド名をカンサスとし、1974年に『Kansas』でメジャー・デビューを果たす。同年、2ndアルバム『Song For America』も発表。翌年には3枚目の『Masque』を発表した。76年には『Leftoverture(永遠の序曲)』を発表し、コンパクトな曲の中に、彼らのオリジナリティーあふれるプログレ・ハード・サウンドを凝縮することに成功する。「Carry On Wayward Son(伝承) 」のシングル・ヒットも生まれ、アルバムは同年中に100万枚、1995年までに400万枚を売る大ヒットとなった。1977年発表の『Point Of Know Return(暗黒への曳航)』からは「Dust In The Wind(すべては風の中に)」が大ヒットし、アルバムそのものも同年中に100万枚、1995年までに400万枚に到達している。1978年には1977〜78年の3本のツアーで収録した音源をもとに、LP2枚組のライブアルバム『Two for the show(偉大なる聴衆へ)』を発表。イングヴェイ・マルムスティーンが多大な影響を受けたことは有名である。79年には『Monolith(モノリスの謎)』、80年には『Audio Visions』とコンスタントにアルバムを発表。しかし、ソロとして活動することを決意したスティーヴ・ウォルシュがバンドからの脱退を表明する。バンドは新メンバーのオーディションを行い、ジョン・エレファンテがヴォーカル&ソングライターとして加入する。82年にアルバム『Vinyl Confessions』を発表。先行シングル「Play The Game Tonight」が17位まで上がり、久々のヒットとなる。83年の『Drastic Measures』はよりポップでコンパクトにまとめられたアルバムだったが、売上の面では成功しなかった。バンドの象徴的存在だったヴァイオリンのロビー・スタインハートが脱退を表明。その後、バンドはベストアルバムを発売し解散したが、再結成し、現在もライブ活動を中心に現役で活動中である。  
  
FOREIGNER / Cold As Ice 1977
イギリス人とアメリカ人が混在するというメンバー構成から「フォリナー」と名付けられた。1976年元ストーリズのイアン・ロイド初ソロアルバムのセッションで知り合ったスプーキー・トゥースのミック・ジョーンズと元キング・クリムゾンのイアン・マクドナルドが、自身らのバンド結成の為にオーディションを行い、3人のアメリカ人を加えて結成。「スーパーグループ誕生」と話題となる。77年発表のデビュー・アルバム『栄光の旅立ち』が300万枚、さらに翌78年発表の2nd『Double Vision』が500万枚を売り上げる。シングル「Double Vision」は2週連続2位を記録。79年、3rd『Head Games』をリリース。80年、イアンとアルが脱退しバンドは4人編成となる。81年発表の4th『4 』は1500万枚の大ヒットとなり、ビルボード・アルバムチャートで10週連続1位を記録した。シングル「ガール・ライク・ユー」が、ビルボードシングルチャート10週連続2位の大ヒットとなる。『4 』まではハードロック、プログレ・ハードのサウンドであったが、「Agent Provocateur (煽動)」以降はバラードが目立つようになる。  
 
 Ted Nugent / Cat Scratch Fever (1977)
  デトロイトでアンボイ・デュークスとしてデビュー。1973年~1974年に2枚のアルバムをリリース後、1975年に初のソロ・アルバム『Ted Nugent』を発表。セカンド・アルバム『Free-for-All』(1976年)に続きリリースした3作目の『Cat Scratch Fever』(1977年)では、アルバムが全米17位、タイトル曲もシングルとして初の全米トップ40入りを果たした(最高30位)。また、ギブソンバードランドをツインリバーブに直結のサウンドと野人スタイルのライヴパフォーマンスも話題となり、ライヴ・アルバム『Double Live Gonzo!』(1978年)は全米13位に達した。80年代には、元Night RangerのJackや、元StyxのTommyとDamn Yankeesを結成し、2枚のアルバムに参加した。  
 
 MEAT LOAF / Bat Out of Hell (1977)
Meat Loaf & Jim Steinman 1971年に『Stoney & Meatloaf』でデビュー。77年、ジム・スタインマンの作詞・作曲、トッド・ラングレンのプロデュースによる『地獄のロック・ライダー』(Bat Out Of Hell)を発表し、全米・英チャートで長い年月に渡ってチャートインした。シングル『Two Out Of Three Ain't Bad』もチャートの11位を記録するヒットとなる。『地獄のロック・ライダー』は、2005年には世界で最も売れたアルバムCDの6位(3700万枚)となって、その後も売り上げを伸ばしている。93年には『地獄のロック・ライダーII〜地獄への帰還』(Bat Out Of Hell II: Back Into Hell)を発表、チャートで1位を獲得、シングルカットされた、『I'd Do Anything For Love (But I Won't Do That)』も全米チャート1位を記録。  
     
 Toto/1978
AORサウンドにハードロックからプログレッシブ・ロック、ジャズ・フュージョンといった、さまざまなスタイルを内包している多様な音楽性が特徴である。1976年に発表するボズ・スキャッグスの「シルク・ディグリーズ」のレコーディングにセッション・マンとしてジェフ、ペイチ、ハンゲイトが参加し意気投合し、ボズの次作「ダウン・トゥー・ゼン・レフト」でいっしょになったルカサーも引き入れ、自分達のバンドを結成することとなった。バンド名の由来は、「トト(toto)」はラテン語で「total」 、あるいは「all-encompassing(網羅的な)」を意味し、数々のセッションに参加していたメンバーの経歴やどんなジャンルの音楽にも対応できるバンドの演奏能力に合致するということから採用された。そして78年、「TOTO~宇宙の騎士」で、個々が経験し培ってきた豊富な知識とテクニックを思う存分に発揮し、新人らしからぬ完成度で周囲を驚かせた。このデビュー・アルバムは瞬く間に全米チャートを駆け上り最高9位を記録。シングル「ホールド・ザ・ライン」は5位まで上がる大ヒットとなった。79年には、2ndアルバム「ハイドラ」を発表。ギリシャ神話の怪蛇獣ヒュドラ(ハイドラ)をモチーフにしたコンセプトアルバムで、プログレやジャズ的な要素を強め音楽の幅をより広げた。つづく3rdアルバム「ターン・バック」(81年)では、少しハード・ロック寄りのアレンジを意識し、ルカサーのギターを前面に出していた。中でも「グッドバイ・エリノア」のようなハードな曲は、ハードロック・ファンの心をも掴み、セールス以上に新たなファン層を拡大する成果もたらした。そして82年、それまでのサウンド集大成的なアルバム「TOTO IV ~聖なる剣」で、ついに全米チャートの頂点に立つことになる。ここからのシングル「ロザーナ」は全米2位(5週間)、つづく「メイク・ビリーヴ」30位、そして「アフリカ 」でついに全米No.1などとヒット曲のオンパレード、アルバム自体も全米4位のトリプルプラチナムに輝くという快挙を成し遂げた。さらには翌年のグラミー賞で主要6部門を独占するといったものすごい勢いであった。しかし、方々の有名アーチストから声がかかり、メンバー達のセッション・ワークは一段と忙しくなった。そのためヒットチャート上位には常にTOTOと同じようなサウンドが蔓延し、飽きられてしまったのだ。それに輪をかけて、キンボールの脱退後、ヴォーカリストを頻繁に換えたので、独自の存在感を徐々に失っていくこととなる。 
Van Halen / You Really Got Me (1977)
1978年、シングル「You Really Got Me」でデビュー。アルバム『炎の導火線』をリリース。 全米最高位19位、150万枚を売り上げ、プラチナディスクを獲得する。現在まで1000万枚以上を売り上げる。エディのライト・ハンド奏法はアマチュアからプロまでのギタープレイヤー達に多大な影響を与えた。「Eruption」は、エディが個人練習で弾いていたフレーズを、プロデューサーのテッド・テンプルマンがたまたま耳にして、レコーディングすることになったという秘話がある。「Ice Cream Man」は、ブルース・ミュージシャンのジョン・ブリムのカヴァー。アルバムは全米19位に達し、先行シングル「You Really Got Me」は全米36位、2ndシングル「Runnin' With The Devil」は84位に達した。84年、6thアルバム『1984』リリース。 全米最高2位。 その時の1位は、マイケル・ジャクソンの『スリラー』で、エディが「今夜はビート・イット」にギタリストとして参加している。シングル「Jump」は5週連続1位、「Panama」「I'll Wait」もトップ20ヒット。85年、デイヴィッド・リー・ロスが脱退。 後任に元モントローズのサミー・ヘイガーを迎える。86年、7thアルバム『5150』リリースし、全米最高1位を記録する。シングル「Why Can't This Be Love」がトップ3のヒットとなる。91年、9thアルバム『F@U#C%K』(For Unlawful Carnal Knowledge)リリース。 全米初登場1位を記録。95年、10thアルバム『Balance』をリリース。 前作に引き続き初登場1位を記録。 結合双生児を模したジャケットの画像は、日本では自主規制により同じモデルが一人で写っている画像に差し替えられている。96年、サミー・ヘイガーが脱退し、エクストリームのゲイリー・シェローンと発表される。98年、11枚目のアルバム『Van Halen III』リリース。 全米最高4位。99年、レコーディング中にゲイリー・シェローン脱退。 バンドは休止状態となる。デイヴィッド・リー・ロスが復帰し、ベースにウルフギャング・ヴァン・ヘイレンを迎え、12年にシングル「Tattoo」リリース。12年、12thアルバム『A Different Kind Of Truth』をリリース。この作品は、ウルフギャング初参加の作品となった。全米2位を記録。
  
Cheap Trick / I Want You To Want Me (1979)
リック・ニールセンとトム・ピーターソンは、Fuse というバンドのメンバーとして1969年にメジャー・デビューするが、商業的成功には恵まれなかった。その後、リックとトムは、バン・E・カルロス、ロビン・ザンダーを加えてチープ・トリックを結成。77年、デビュー・アルバム『Cheap Trick 』発表。しかし、本国アメリカでは売れず、続く『蒼ざめたハイウェイ (In Colour) 』『天国の罠(Heaven Tonight) 』もヒットしなかったが、日本では人気が高まっていき、78年に、初の日本公演を行う。その時の模様を収録したライヴ・アルバム『at 武道館 』は、当初は日本限定企画だったが、アメリカで日本からの輸入盤が売れ出したため、79年に本国でもリリースされ、バンドにとって初の全米トップ10入り(最高4位)を果たした。また、このアルバムからシングル・カットされた「甘い罠 (I Want You To Want Me)」は7位まで上昇し、バンドにとって初の大ヒット・シングルとなった。4th『ドリーム・ポリス(Dream Police)』は当初、79年春に発売される予定だったが、アメリカでは『チープ・トリックat武道館』が売れており、競合を避けるために発売が延期された。80年、同年発表のアルバム『All Shook Up』は、ジョージ・マーティンがプロデュースを担当。しかし、同作を最後にトムが脱退。バンドはピート・コミタを迎えてツアーを行い、その後ジョン・ブラントが加入。『One On One』やトッド・ラングレンがプロデュースを担当した『Next Position Please』等の意欲作を発表するが、セールス的には落ち込んでいった。86年、映画『Top Gun』のサウンドトラックに「Mighty Wings」を提供。87年、トムがバンドに復帰。翌年には、アルバム『永遠の愛の炎』が全米16位のヒットとなり、同作からのシングル「永遠の愛の炎(The Flame)」は、バンドにとって初の全米1位シングルとなった。2010年 従来より身体的な問題が伝えられていたバンについては、メンバーとして籍は残すもののツアーには参加しないことを発表。以降、リックの息子ダックスがツアードラマーとして迎えられた。2015年 12月、ディープ・パープル、シカゴ等とともに、翌2016年付でのロックの殿堂(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)入りが発表される。  
   
STYX / Come Sail Away(1979)
1972年、アルバム『スティクス』でデビュー。デビュー当初のサウンドはプログレッシブ・ロックの色彩が強く、長大な楽曲も多く収録していた。74年に3rdアルバム『サーペント・イズ・ライジング』を発表した頃から、大曲志向から短いポップな志向のものへと変貌していく。75年、2年前に発売された2ndアルバムに収録されていた「Lady」が徐々にチャートを上昇して全米6位まで浮上した。さらにアルバムもセールスも延びてゴールドディスクを獲得。同年、『分岐点(Equinox)』の制作後にメンバーをチェンジし、トミー・ショウが加入することとなる。トミーが加入したことで、スティクスの作品はより洗練され、さらに人気を獲得することとなり、77年発表のアルバム『Grand Illusion』が全米トップ10入り、シングルでは「Come Sail Away」が全米8位となる。その後、79年リリースの『Cornerstone』からは全米No.1シングルの「Babe」が生まれ、アルバムも全米2位の大ヒットとなる。さらに81年リリースの『Paradise Theatre』からは「The Best Of Times」が全米3位、「Too Much Time On My Hands」が全米9位となり、アルバムは初の全米1位を記録した。83年には『ミスター・ロボット(Kilroy Was Here)』がリリースされ、日本語の歌詞が話題となるなど、日本でもその人気を博す。その後、デニスとトミーとの間に亀裂が生じ、各々のソロ活動に力点が置かれ、80年代後半には既にSTYXの存在感は薄れ、90年にはトミーがダム・ヤンキースに参加することとなる。
 
 AC/DC / HIGHWAY TO HELL 1979
オースト ラリアのロックバンド。アンガス・ヤング、マルコム・ヤングのヤング兄弟を中心として、1973年にシドニーで結成された。74年、ツアー中にマネージャーと殴り合い離脱することとなったデイヴ・エヴァンスに代わり、オーストラリアでいくつかのバンドで経験があり、バンドの器材車のドライバーをしていたボン・スコットをヴォーカリストとして迎え、翌75年に1stアルバム『ハイ・ヴォルテージ (High Voltage)』をリリースした。同年12月に2ndアルバム『T.N.T.』をリリース。76年、バンドはアトランティック・レコードと世界規模のレコード契約を結び世界デビュー盤High Voltageをリリースする。79年、6thアルバム「地獄のハイウェイ (Highway to Hell )」 をリリース。このアルバムはアメリカでも発売いされ最高位17位を記録した。しかし、翌80年2月、ボン・スコットが友人の車中で死亡しているのが発見された。原因は睡眠中、嘔吐物を喉に詰まらせての窒息死であった。この6thアルバムには、「Highway to Hell」が収められていることと、ボン・スコットの遺作となったことから、AC/DCのディスコグラフィーでは重要な位置を占めるアルバムである。ブライアン・ジョンソンが加入し、80年7月に『バック・イン・ブラック (Back in Black)』のタイトルで7thアルバムがリリースされる。売り上げはこれまでに世界で5000万枚を超え、バンドにとって最大のヒット作(1位のマイケルジャクソン『スリラー』、2位のピンク・フロイド『狂気』に次いで全世界で歴代3番目に売れたアルバム)となっている。81年には、『悪魔の招待状(For Those About To Rock (We Salute You))』 をリリース。ついにこのアルバムで全米アルバムチャート1位の座を射止め、絶頂期を迎える。
  
 REO SPEEDWAGON / Take It on the Run (1980)
1967年にイリノイ州で結成、71年に『REOスピードワゴン』でデビュー。デビュー当初から年間300本に及ぶツアーでアメリカ国内のクラブや高校を回る地道なライヴ活動を展開し、ブレイク前は「アメリカで最も売れていないが、長続きしているバンド」と評されるほどであった。78年、8thアルバム『ツナ・フィッシュ』リリース、全米第29位。「ロール・ウィズ・ザ・チェンジズ」と「出発の時」がシングルとしてヒット。79年、9thアルバム『ナイン・ライヴス』リリース、全米第33位。80年、11thアルバム『禁じられた夜(Hi Infidelity)』をリリース。それまでビルボードのアルバムチャートで8週連続全米No.1を獲得していたジョン・レノンの『ダブル・ファンタジー』をNo.1から叩き落した。その後、15週連続全米No.1を獲得し、売り上 げも最終的には1000万枚を突破。この年の年間アルバムチャートでも第1位を獲得した。このアルバムからのシングル「キープ・オン・ラヴィング・ユー」はチャートで全米No.1を獲得し、「テイク・イット・オン・ザ・ラン」(5位)など計6曲がシングルカットされ、チャートの60位以内にランキングされることとなり、「アメリカで最も売れて、長続きしているバンド」となった。  
  
 Journey / Don't Stop Believin' (1981)
1975年にデビュー作『宇宙への旅立ち』を発表。セカンド・アルバム『未来への招待状』、『果てしなき挑戦~ネクスト』を立て続けにリリース。この頃は「インストゥルメンタル曲主体のプログレッシヴ系ロックバンド」という位置付けにあったが、商業的には振るわず、補強のためヴォーカリストとしてスティーヴ・ペリーを加入させ、バンドの方向性はそれまでにない劇的な変化を遂げる。78年、4thアルバム『インフィニティ』では前作までのプログレッシヴ系ロックバンドとしての作風も維持しつつ、それと伸びの良いヴォーカル・パートを生 かした躍動感ある楽曲との和合が特色となり、その後のバンドの方向性を明確に示す。このアルバムは全米21位のヒットとなり、初のシングル・ヒット「ホイール・イン・ザ・スカイ」と共にプラチナ・ディスクを初めて獲得した。その後、ドラマーがスティーヴ・スミスに交代し、79年、『エボリューション』アルバムでは全米チャート20位、続く80年の『ディパーチャー』では8位と更に勢いを増し、「ラヴィン,タッチン,スクウィージン」や「お気に召すまま」などのシングル・ヒットも連発した。結成時のメンバーであったグレッグ・ローリーが脱退し、ベイビーズのジョナサン・ケインが加わる。オルガン主体のキーボードプレーからエレクトリックピアノ主体のプレーに代わることでサウンドが洗練され 、ニール・ショーンのギターを生かしたハードロックの要素も健在で、80年代という時代を象徴するようなメロディとサウンドを確立した。『エスケイプ』『フロンティアーズ』などメガヒット作となるアルバムが連発され、同時代に活躍したカンサスやフォリナー、スティクスといったバンドも同じ方向へ進んでいくことになる。81年に発表されたアルバム『エスケイプ』は、全米1位を獲得。「オープン・アームズ」「ドント・ストップ・ビリーヴィン」「クライング・ナウ」などシングルもヒットを連発した。83年の『フロンティアーズ』も全米9週連続2位のメガヒットに輝く。ハードかつポップな曲調とバラードを絡めるスタイルは、多くのフォロワーを生み出すことともなった。スティーブ・ペリー脱退後は何度かのメンバーチェンジの後、2007年にペリーを彷彿させる音域を持つフィリピン人シンガーのアーネル・ピネダ(Arnel Pineda)をリード・ボーカリストに迎え、奇跡の復活を遂げた。  
 
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